3年前からパウダーパフレーシング・ミニとして
女子で戦っている岡山国際サーキットでのミニバイクレース。
このレースの常連ササダファクトリーの笹田喜也さん。
オープン2ストクラスを走る私と同世代のライダーさんである。
その笹田さんが1981年の鈴鹿4時間耐久レース
堀さんと私のスタート時の写真をお持ちだと!
堀さんと戦った2度目の4時間耐久は
私たちにとってリベンジともいうべきレースだった。
その前の年、1980年の第1回大会は
ドクター須田さんに作っていただいたGSX400Eで
F-3クラスポールポジションという、周りも
自分たちさえもビックリするタイムを堀さんが
たたきだし、決勝は皆に期待をされた。
スタートは堀さん。
しかし、土砂降りのコンデション、2周目の1コーナーに
流れ出たオイルに乗って転倒炎上してリタイヤ。
私は決勝を1周も走ることが出来ずに終わってしまった。
ピットに戻ってきた堀さんが、
「須田さんごめんなさい、峰子ちゃんごめんね。」と
少女のように泣きじゃくる顔は、いまも脳裏に焼き付いている。
彼女はこのレースを最後にロードレースから引退するつもり
であった。しかし、女の著書にも書かれているが
「私を走らせてあげたい」の想いで、翌年のエントリーを
その場で決めていた。
その年の暮れ、当時スズキの2輪設計部長だった横内さんに
お会いし、堀さんと二人、頼み込んでGSX400Eを出してもらい
エンジンは横内さんと強い繋がりのあったPOPこと
吉村秀雄さんにお願いし、ヨシムラチューンで仕上げていただいた。
横内さんは油冷式GSXの開発、また当時センセーショナルな
デビューを果たし、今なおファンが多い名車「刀」の父と呼ばれ
1978年の鈴鹿8時間耐久第1回大会ではPOPと参戦し
GS1000Rでクーリー・ボールドウィンを優勝に導いた方である。
足回りやカウル、フロント回りなどは当時の世界選手権
GP500に参戦していたマモラやルッキネリらが駆けた
RG5BやRGΓのものを流用してもらった。
当時の手帳に残っていた流用部品。
前年と違い、1981年はバイクブームの幕開けで
エントリー台数180台を超え、予選に残るのは3分の1。
前年の転倒炎上のトラウマから抜け出せないでいた堀さんは、
6月に毎週末通った竜洋のテストコースでも、鈴鹿での練習でも
思ったようなタイムが出なかった。
私のタイムが予選に残るギリギリだった。
横内さんや岩崎さんなどスズキのみなさんはじめPOPなど
世話になった皆さん、そしてなにより、私を走らせたい一心で
スポンサーやサプライヤーさんに掛け合ってくれた堀さん。
なんとしてでも予選通過し、完走しなければと、強く思った。
なんとか無事に予選を通過し、スタートを任された私。
お決まりのスタート前の緊張で、ずっと下を向いたまま。
笹田さんにいただいた写真からもよくわかる。
選手紹介されても下を向いている。
この時代は背中にゼッケンをつけなければならなかったので
せっかくの背中のペガサスが見えない。
右が着用していたもので、左は2年前にクシタニさんで
レプリカを作ってもらったもの。
グリッドまで歩く道中も、誰にも目を合わせたくないから
下を向いたままだった。
そしてスタート。
当時はブラックアウトではなく、カウントダウンから
「GO」の電光表示だった。
無事にスタートするも、10周したころだったか、
フロントブレーキが全く効かなくなった。
一旦ピットインしてエア抜きしてもらって再スタート。
ピットとピットロードを隔てるウォールが懐かしい!
1時間後堀さんにバトンタッチ。
1時間後にまた私に交代して、なんとか自分のスティントを
ふたつ無事に走り終えた。
毎周回、「バウゥー」という独特の排気音を響かせ、
最終コーナーから駆け下りてくる堀さんの姿を目で追いつつ、
チェッカーまで無事に走り終えてくれることを祈った。
チェッカーフラッグが振られ、メインストレートに戻ってきた
堀さんに、黒いサインボードに白墨で「ゴクローサン」と書いて
サインを出した。
コッチを向いて頷く堀さんの安堵の目をシールド越しに
見た時、私たちの2年越しの耐久レースが終わったと思った。
メインスタンド前はチェッカーを受けたライダーとそれを迎える
スタッフでごった返す中、私は缶ビールを抱えてコースに飛び出した。
大勢のライダーの中に堀さんを見つけた瞬間からの記憶が
なぜだか、ない。